断片

繚乱のオフィス、残照の二人【前編】

深夜、副都心のオフィスビルの高層階。
空調の低い唸りだけが、広大なフロアの静寂を際立たせていた。
俺、白井尊(しらいたける)は、三十代半ばの管理職。妻と別れて、3年。

俺の人生は、無機質な歯車の一つとして、仕事にこの身をささげることしかなかった。

「……また、一人か」

モニターの青白い光に照らされ、俺は少し緩めたネクタイを弄った。
仕事に打ち込む俺に元妻が愛想を尽かして以来、俺はむしろ、仕事に一層自らの私生活を差し出すことを決めていた。長身だし、もともとは筋肉質な方だったが、三十代を過ぎて腹廻りもたるんできている。ようやく仕事も脂がのってきたころで、人生を見直す時期だとも思えたが、こんな俺に寄り添ってくれる女性など・・・。そう、思わず自嘲する。

その時、自動ドアが開く音がし、微かな、しかし凛とした足音がこちらへ向かってきた。
佐倉結衣。
人事に所属する彼女は、二十五歳という若さと、ダークブラウンのミディアムヘア、そして笑うと浮かぶえくぼから、社内の「アイドル」として扱われていた。だが、俺は知っていた。そのぷりっとした唇から零れるのは、甘い言葉ではなく、現状を打破しようとする熱い意志であることを。彼女は考え事をする際、その瑞々しい口先をキュッと嘴(くちばし)のようにすぼめる癖があった。その無防備な愛らしさを、俺は密かに見つめていた。

「……白井先輩、まだ残ってたんですね」

彼女の手には、使い込まれたノートPCと、付箋だらけの資料。
「ああ。今回の部署横断プロジェクト、山場だからな」
「私も、最後の一踏ん張り、ご一緒させてください。……誰にも邪魔されない、この時間が一番捗るんです」

彼女は俺の隣の席に腰を下ろした。
柔らかなシャンプーの香りが、埃っぽいオフィスの空気を一瞬で塗り替える。
周囲の男たちは、彼女を「花を添えるための飾り」だと侮り、心ない噂を立てていた。しかし、俺の隣でキーボードを叩く彼女の指先は、誰よりも正確で、誰よりも力強い。

その可憐さに反して、覚悟を決めて仕事に向きあう姿勢は、見た目以上に彼女の魅力だと、俺には思えた。

部署横断プロジェクトは、困難を極めていた。
他部署からの反発、予算の削減、そして「アイドルに何ができる」という冷ややかな視線。
ある日、彼女が誰もいない非常階段で、独り震える肩を抱いているのを見つけたことがある。彼女は悔しさに唇を嘴のように尖らせ、溢れそうな涙を堪えていた。

「佐倉、君の分析は間違っていない。俺が責任を持つから、最後までやり遂げろ」
「……白井先輩。どうして、私を信じてくれるんですか?」
「仕事を見ていればわかる。君は、誰よりもこのプロジェクトに真摯だ」

俺の言葉に、彼女はきゅっととじた唇を愛らしくほころばせ、それから小さく微笑んだ。くりっとした両目に涙の跡を残しながら。
俺は彼女のメンターとして、自分の培ってきた経験からくるノウハウを伝授し、彼女は人事としての鋭い視点でチームの結束を強めた。
支え、支えられる関係。
いつしか、深夜のオフィスで交わす他愛もない会話が、俺たちの孤独な心に「パートナー」という名の熱を灯していった。

情熱と真摯さで仲間をまとめ、実質的なリーダーとして推進してみせる彼女と、それを技術と経験で支える俺。お互いにこれ以上ない信頼関係の「戦友」だと思えたし、それで十分だとも思っていた。

プロジェクトは大成功を収めた。
打ち上げの喧騒。同僚たちが彼女を囲み、大喝采をあげ、時に下卑た称賛を浴びせる中、俺と彼女は視線だけで合図を交わし、駅裏の小さなバーへと逃げ出した。

カウンターの隅、琥珀色のウイスキーがグラスの中で揺れる。
「……先輩。私、ずっと、白井先輩の背中だけを見て頑張ってきました」
結衣の声は、酒のせいか、それとも解放感のせいか、これまでにない湿り気を帯びていた。
「俺もだよ。君が隣にいてくれなかったら、俺はまた、ただの仕事の機械に戻るところだった」
「・・・光栄です。先輩。」

プロジェクトの苦労を、二人だけで分かち合える思い出話に花が咲き、酒も進む。

何杯目かのロックグラスを空けながら、佐倉はいった。
「……ねえ、白井さん。私たち、本当によいパートナーでしたよね?」
「ああ、そう思うよ」
心からの同意を込めて、即答した。
その返答に満足げに微笑むと、彼女は俺の腕にそっと手を重ねた。
「あの、それなら、私を、仕事のパートナーというだけじゃなくて・・・」
彼女の指は、かすかに震えていたが、まなざしは真っすぐこちらに向かっていた。
そのまっすぐさが、俺には眩しかった。
「一人の女として……最後まで責任を持って、受け止めてくれますか?」

その言葉は、俺の中でずっと抑えていた独占欲を、一気に爆発させた。
俺は彼女の細い指を絡め、強く握り返した。
「……いいんだな。俺は、君が思っているような男じゃないぞ」
「わかっているつもりです。白井さんの優しさも強さも。」
穏やかな笑みを浮かべながら、佐倉は噛みしめるように言った。

バーを出ると、夜風が火照った肌を撫でた。
二人の間に流れる空気は、もはや仕事上のパートナーのそれではなく、互いの本能を確かめ合うための男女の熱に支配されていた。

それとなく佐倉が繋いだ手の指を絡めてくる。
きつくきつく、結びつく。

駅前の喧騒を抜け、静寂が広がる路地裏へ。
並んで歩く俺たちの影は、街灯の光に引き延ばされ、何度も重なり合う。
「……白井さん、歩くの早いですよ」
彼女が少し小走りに近づき、俺の腕にしがみついてきた。
タイトなスーツ越しに、彼女の柔らかな胸の感触が、俺の腕にダイレクトに伝わる。
剛直が熱い。

「……すまない、こういうのは久しぶりで・・・。気が急いているのかもしれない」
「……私も。なんだか、心臓の音がうるさくて、恥ずかしいです」

ホテルのエントランス。
自動ドアが開くたびに、日常から切り離されていく感覚。
チェックインを済ませ、エレベーターの密室に二人きりになった瞬間、俺は彼女を壁に押し当て、深く、長い接吻を交わした。
彼女の新鮮な弾力を帯びた唇は、驚くほど柔らかく、そして飢えた獣のように俺の舌を求めてきた。

「……先輩、ここ、すごく熱い」
彼女の手が、俺のベルトのわずか下あたりを、確かめるように探る。
「……服の上からでもわかりますよ。あなたが、どれだけ私を欲しがってくれているか。」

エレベーターが最上階に到着する。
扉が開いた先にあるのは、ガラス張りのバスルームを備えた、都会の深淵。
俺たちは、お互いを支え合ってきた「パートナー」という仮面を、一歩ごとに脱ぎ捨てながら、その裏側で熟成してきた「本音」と「本性」を暴き合うための聖域へと、足を踏み入れていった。

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