五月の朝は、まだ洗いたてのシーツのような清潔な匂いがしていた。 大学生の翔子は、鏡の前でストレートの長い黒髪に櫛を通す。一糸乱れぬ毛流れは、彼女の理性的で穏やかな日常そのものだった。彼女が纏う空気は、常に一定の湿度を保ち、周囲に安らぎを与える「淑女」のそれである。
「翔ねえ、おはよ!」
背後から飛びついてきたのは、妹の瑞希だった。ツインテールを揺らし、まだ子供っぽさの残る華奢な腕が翔子の腰に回される。
「おはよう、瑞希。今日は一段と元気ね」
「だって、天気がいいんだもん。あ、その髪留め、つけてくれたんだ? やっぱり翔ねえに似合う!」
瑞希は翔子の豊満で柔らかな曲線を描く身体に顔を埋め、子猫のようにじゃれてくる。翔子はそんな妹の頭を優しく撫でた。瑞希は自分にない姉の女性らしい体つきに、時折羨望の眼差しを向けることがある。けれど、その純粋な甘えの中に、翔子は無上の幸福を感じていた。
しかし、ここ数ヶ月、その「幸福」の輪郭が、微かに滲み始めていることに翔子は気づいていた。 瑞希が時折見せる、ふとした瞬間の遠い目。あるいは、夕暮れ時に帰宅した彼女の首筋から立ち上る、石鹸の香りとは異なる、もっと濃密で、熟しきった果実が潰れたような甘く重い匂い。
「瑞希、最近……何かいいことあった?」
「えっ、別に? 普通だよ。・・・ねえ、早く朝ごはん食べよう!」
瑞希の頬が朱に染まる。それは、姉に向ける親愛の情とは明らかに異質の、熱を孕んだ色だった。瑞希は知らない。姉の瞳が、自分を通り越して、その背後に潜む「見えない誰か」の影を追い始めていることを。
その亀裂は、午後の陽光の中で唐突に姿を現した。 講義が休講になり、空白の時間を埋めるため、本屋へ向かおうと翔子が駅前の並木道を歩いていた時のことだ。
人混みの向こうに、見覚えのあるツインテールが見えた。瑞希だ。隣には、彼女より少し背の高い、引き締まった体躯の青年が歩いている。 瑞希は、翔子の前では決して見せないような顔をしていた。眉をひそめて何事か毒づいているようだが、その瞳は潤み、繋いだ指先は離れがたく絡み合っている。
(あの子が、あんなに必死に誰かを求めているなんて……)
二人は立ち止まり、街路樹の影へ滑り込んだ。 翔子の心臓が、喉元まで跳ね上がる。 青年の腕が瑞希の細い腰を抱き寄せ、瑞希の華奢な体が彼の中に溶け込んでいく。 重なり合う唇。路上という、誰に見られるかもわからない場所で、瑞希は躊躇いもなくその甘い熱を青年に捧げていた。
別れ際、瑞希が彼の耳元で囁く。
「……大好き。大好きだから」
聞こえるはずのないその声は、しかし、紅潮した頬をうるんだ目から、翔子には間違いなくそう聞こえた。
普段の彼女からは想像もつかない、熱に浮かされた、無防備な女の告白。
翔子の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
(……あ。ああ、そう、なんだ)
足元から急速に体温が奪われ、代わりに喉の奥が焼けるように熱くなる。
翔子は逃げるようにその場を離れ、人混みの中に身を隠した。心臓が耳元でうるさく鐘を鳴らし、呼吸の仕方を忘れたかのように肺が喘いでいる。
(落ち着いて。落ち着かなきゃ……)
彼女は自分に言い聞かせるように、何度も深く、浅い呼吸を繰り返した。
(瑞希だって、もう高校生。年頃の女の子が恋をして、誰かと肌を触れ合わせたいと思うのは……当たり前のことじゃない。何もおかしくない。瑞希が、誰かに愛されて、幸せになろうとしている。姉として、それを喜んであげるのが「正しい」はずなのに)
けれど、脳裏に焼き付いたあの光景——瑞希の震える睫毛、絡められた指先、そして、あどけない唇が異性の熱を求めて吸い付く様——が、翔子の理性を執拗に掻き乱す。
(どうして、こんなに手が震えるの? どうして、胸が抉られるように痛いの?)
それは、大切な宝物を奪われたような「寂しさ」だけではなかった。もっと暗く、粘り気のある、形容しがたい感情が泥のように足元から這い上がってくる。
(……置いていかれる。瑞希はあんなに早く、私がまだ知らない「外の世界」の熱を知ってしまった。私の知らない言葉で話し、私の知らない体温に触れ、私の知らない表情で笑う。……私は、あの子に何をしてあげられた? 私が与えていた「愛情」なんて、あの青年のひとつの口づけよりも、ずっと軽くて、浅いものだったの?)
自己嫌悪の渦が、翔子を飲み込んでいく。 瑞希を純粋に慈しんできたはずの「良き姉」としての矜持が、嫉妬という名の醜い色に染まっていく。 あの子を自分だけの箱庭に閉じ込めておきたかったという独占欲。そして、その箱庭を無惨に踏み荒らし、自分よりも先に「悦び」の階段を駆け上がっていった妹に対する、名状しがたい焦燥。
(私は、最低だわ……。妹の幸せを願うこともできず、こんな汚い感情に振り回されて。あんなに私を慕ってくれる瑞希に対して、なんて顔をして向き合えばいいの?)
思考はぐじゃぐじゃに縺れ、出口のない迷路を彷徨う。 翔子は自分の二の腕を強く抱きしめた。大学生として、淑女として、完璧に保ってきたはずの輪郭が、瑞希の纏っていた「熱」の残像によって、ドロドロに溶かされていく。
(……瑞希。ねえ、瑞希。あなた、今はどんな顔をしているの? 今も、その肌には彼の熱が残っているの?)
その夜、帰宅した瑞希は、いつものように「翔ねえ!」と無邪気に笑ってみせた。 だが、翔子の目には、瑞希の唇に残る見えない傷痕と、彼女の体内に残っているであろう異質の熱気が、鮮明な残像となって焼き付いていた。翔子の平穏な日常に、取り返しのつかない黒いインクが滴り落ちた瞬間だった。
更なる運命の日は、熱帯夜を予感させる重苦しい湿気と共に訪れた。 夜あるはずだったサークルの懇親会が散会となり、三時間早く大学から戻った翔子は、玄関を開けた瞬間に異変を察知した。 静まり返った家の中に、奇妙な「密度」が漂っている。
二階の廊下を進むにつれ、その密度は「音」へと変わった。 瑞希の部屋の扉が、わずかに開いている。 そこから漏れ出すのは、喉を焼くような、熱く、湿った、獣のような呼吸。
「……あ、しげる……しげるっ……」
翔子の指先が震える。逃げ出さなければならない。そう思う理性とは裏腹に、瞳は吸い寄せられるように隙間の光の中へ。
そこには、聖域の崩壊があった。 ツインテールを解き、乱れた髪を寝具に散らした瑞希が、茂と呼ばれた青年の下で激しく身をよじらせている。 瑞希の華奢な肢体は、青年の逞しい筋肉に翻弄されながらも、飢えたように彼を飲み込んでいた。
「瑞希、可愛い……マジで、可愛すぎ……」
「やだ、そんなに見ないで……でも、もっと、もっと強くして……!」

瑞希の、あのコンプレックスだったはずの小ぶりな胸が、彼の掌の中で無残に形を変え、押し潰される。 肉体と肉体が衝突する、湿った、粘り気のある音が、静かな廊下に木霊する。 翔子の視界の中で、瑞希の肌が、青年との情熱的な交合により艶やかに染まっていく。
茂の腰が激しく打ち付けられるたび、瑞希の口からは意味をなさない甘い悲鳴が零れた。 二人が絶頂へ向かう瞬間、お互いの名前を呼び合う声は、もはや祈りに近かった。 瑞希の体内から溢れ出した愛液が、シーツに隠しようのない模様を刻んでいく。
翔子は、自分の呼吸が止まっていることに気づいた。 気づけば、彼女の手は自らの豊かな胸を、そしてスカートの奥の禁忌へと伸びていた。 妹の快楽の残響を耳にしながら、翔子の指先は、自分でも驚くほどの熱を帯びた部位をなぞり、孤独な痕跡を刻み込んでいく。 喉の奥で押し殺した声は、妹のそれよりもずっと、暗く澱んでいた。
その日以来、翔子の世界は色を失い、代わりに「匂い」だけが過敏に際立つようになった。 瑞希と接するたびに、彼女の肌の奥に潜む茂の残り香を感じ、無垢な彼女の笑顔に情欲の痕跡を探すようになり、同時に凄まじい渇望が翔子を襲う。 妹に微笑みかけるたび、裏切りの味を孕んだ唾液が口内に広がる。
ある日の放課後、翔子は大学のラウンジで独り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。 彼女の指先は、無意識に、あの日自分で自分を汚した痕跡をなぞるように、太腿のあたりを微かに震わせていた。
「……いい匂いだ。雌の、それもひどく熟れすぎた匂いがするね、翔子ちゃん」
背後からかけられた、低く、湿り気を帯びた声。 翔子が肩を震わせて振り返ると、そこにはサークルの先輩、高城が立っていた。 彼の瞳は、翔子が隠し続けてきた内側の「空洞」を、一瞬で見透かしていた。
「先輩……何を……」
「隠さなくていい。君の瞳の奥に、誰にも言えない毒が溜まっている。その毒を、俺が抜いてあげようか?」
高城の手が、翔子の肩に置かれる。 その掌は驚くほど熱く、あの日覗き見た茂の熱を想起させた。 罪悪感と自責の念で崩れそうだった翔子の心に、彼の不穏な囁きは、抗いようのない救いとして染み込んでいく。
「君は……見た目よりずっと、悪い子だね」
その肯定が、翔子の残っていた理性の最後の一線を、音を立てて断ち切った。 熱帯の午後は、まだ終わらない。姉妹を包む硝子の境界は、今や粉々に砕け散り、鋭い破片となって彼女たちの肉体を刻み始めていた。



